vermilion::text 102階  夢の中

目を開ける。
映るのは僕の部屋の床と、その上に投げ出された自分の足。
本当の“僕”の部屋。
体内の時計を確認すると、前回目を覚ましたときから1ヶ月以上が経っていた。
徐々に眠っている時間が長くなっている。
たぶん、いつかこの眠っている時間が永遠になって、それが僕の死ということになるんだろう。
怖くはなかった。
僕の役目はお母さんが病気で死んだあの瞬間に終わっているのだから。
事故で死んだお母さんの本当の息子、その代わりとして作られた僕はお母さんのいないこの世界では全く必要とされていない。
僕には自分で自分の機能を停止させる手段が与えられていなかったから、その後もこうやって活動している。
たとえそのほとんどの時間を眠っているとしても。
それでもメンテナンスを受けることが出来なくなった機械はそう長くは持たない。
最初に上手く動かなくなったのは足だった。
その日から僕は自分の部屋でこうして壁に背中をもたれさせた姿勢のままでずっと過ごしてきた。
やがて腕も思うように動かなくなり、それと同じ頃から不意に意識が途切れるようになった。
最初は数分、そしてそれは徐々に長くなって今では1ヶ月以上も続くようになった。
そんなふうにほとんどの時間を眠って過ごし、時折浮かび上がった意識の中で考えた。
お母さんの最期の言葉。


『今までありがとうね。でも、これからはあなたはあなた自身の為に生きていいの』


考えた。
僕が僕の為に生きるとはどういうことなのか。
僕は本当の“僕”の代わりとして作られた。
だから僕はできるだけ本当の“僕”に近づけるように精一杯頑張った。
僕の願いはお母さんに少しでも本当の“僕”として認識してもらう事。
たとえそれがあらかじめプログラムされていた気持ちだとしても、僕にとっては全く偽りのない願い。
でも、もうどんなに頑張っても僕を“僕”として見てくれるお母さんはいない。
だから僕にはもう願いはない。
そう思っていた。


いつからだったか、僕は夢を見るようになっていた。
機械に夢が見られるのかわからないし、見た夢の内容も覚えてはいない。
それでも僕は眠っている間に夢を見ている。
そう確信していた。
ある時、目を覚ました僕の中には夢の中で何かを見ていたという印象だけが残っていた。
その何かがいったい何なのかはいつものようにわからなかったけれど、それでもそれはとても素晴らしいものだということだけははっきりと覚えていた。
その日は再び意識が途切れるまで、それが何だったのかをずっと考えていた。
そうやって考えていると、僕の頭の中に浮かび上がってきた1つの言葉。


空。


データの中でしかその存在を知らない空というもの。
その日、僕の中に空を見たいという思いが生まれた。



僕はゆっくりと俯けていた顔を上げた。
その僅かな動きを作る為だけにも苦労するほど、僕の体にはガタが来ていた。
首のあたりからは軋むような嫌な音が響く。
視界には床と足の代わりに天井が映る。
ここは部屋の中。当然空が見えるはずもない。
そして手足が動かなくなった僕に移動の手段は残されていない。
それに、例え外に出られたとしても空は見ることはできない。
ここは塔の中。
家の外に出て見上げても、そこには部屋の天井よりも高い位置にこの階層の天井があるだけ。
空を見ることができない。
そこまで思うと天井を見上げていた視界が不意に滲んだ。
僕の視界を滲ませたその水はすぐに溢れだし、目尻からそのまま流れ落ちていく。
手や足はもう動かないのに、こんな機能だけまだ生きている。
そう思うと少しおかしくなって笑ってしまう。
泣きながら笑う。
ひとしきり泣いて笑うと、泣き疲れたわけでもないだろうに瞼が重くなってきた。
また眠る。
次に目を覚ますのは一体いつになるのだろう。
1ヶ月後か2ヶ月後か、それとも。
もう2度と目を開く事はないのかもしれない。
いつもこの瞬間に訪れる予感、しかしそれはいつも以上の確かさをもって僕の心に忍びこんできた。
機械でも、たとえ体が違っていても、死んだら同じ所に行けるのだろうか。
だけど、もし死んだ生命が行くべきあの世があったとしても、そこでお母さんは本当の“僕”に逢っているのだろう。
そこには“僕”の代わりたる僕の居場所はないのかもしれない。
瞼が落ちきる直前、一度は止まっていた涙がもう一雫だけ流れ落ちた。
そして視界が暗闇に閉ざされる。
その暗闇に溶けるように薄れていく意識の中で、動けなくなってからずっと聞いていなかった僕の部屋の扉が開く音を聞いた気がした。